哲学、芸術、デザイン事務所創業、そして次なる挑戦 APATERO代表/美術作家・長田航インタビュー(2/3)

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大阪に居を構え「カゲキをステキにデザインする」という理念のもと制作を行う新興デザイン事務所・APATERO
その代表であり、自身作家活動を行われている長田航にインタビューを行った。
中編となる本稿では、長田の制作における思想を中心に聞いた。

前編の記事はこちら

本来的な体験というのは言語の集合よりももっと大きい

-長田さんの制作のテーマとして挙がった言語への考え方について詳しく聞かせてください。

長:なんというかな。言葉って記号ですよね。記号を使うと、コミュニケーションがすごく簡単になります。例えばお腹が痛いとするじゃないですか。それを林田(インタビュアー・joytomoのこと)さんに伝えようとするなら、「お腹痛い」と言うだけで済みますよね。

-そうですね。

長:「お腹」という記号は、人体のこの辺りの部位を指す、っていうのは共通理解としてあるし、「痛い」というのも、その人の痛さというのは全く感じられないですけど、自分も過去に痛い経験はしているから、そこから引っ張ってきて理解できる。コミュニケーションにおいては、「お腹」と「痛い」という言葉が無かったら、この辺(お腹を指して)がすごく痛くても、伝える術が全く無いですよね。それを記号化して伝えることによって円滑なコミュニケーションがちゃんととれるようになって、社会というのは発展してきてるわけです。それは人類の発明として素晴らしいものやとは思うんですけど、どうしても僕が不安に思うのが、思考が言葉の側に支配されちゃってるということなんですよね。すごく軽薄な言葉っていっぱいあって、例えば「キモイ」っていう言葉があるじゃないですか。あれってすごく汎用性の高い言葉ですよね。よく分からない、自分の処理能力の限界を超えたものを経験するとすぐに「キモイ」っていう一言で処理しようとする面がすごくあると思いませんか。僕は子供の頃「キモイ」と言われた方なんですが(笑)。

例えの話ですけど、よくわからないものを見たり聞いたりしたときに「キモw」で片付けてしまう。自分は感情と思考を処理できたということにしてしまう。ちゃんとそれを自分の中で咀嚼して処理しようと思えばもっと広がりを持っていたとしても、「キモイ」で片付けてしまうと思考はそこで止まってしまう。それと同じように、「かわいい」とか「かっこいい」とか「素敵」とか。例えば絵画を見て、「きれい」とか言っちゃうと、それで絵画が終わっちゃうんです。

-一気に意味が縮んじゃいますよね。

長:そうなんですよ。本来的な体験というのは、言語の集合よりももっと大きいもので、言い尽くせないものの方が圧倒的に多い。それを心の中で咀嚼するしかないと思うんですよ。でも、人間って片付けたがりますよね。とりあえず分かった気になりたいっていう欲求がすごく強い。そういった、深く感じる前に片付けてしまいたいという行動の連続が、認識的な意味での個人的世界の砂漠化を招いてしまうんだと思います。

言った時点で矛盾してしまうから、作品として表出するしかない

-その考えをどのようにして作品に込めているのでしょうか。

長:最近は、絵を描くときにあえて感情を文字として書いたりしています。文字って情報としては日本語が分かれば伝わるじゃないですか。だから文字だけの作品を作ればいいんだけど、そのテキスト情報を超えた、色彩だったりとか、構図だったりとか、造形だったりとか、素材は何を使ってるだとか、そういった言葉以上の情報を言葉と一緒に貼付けることによって、その広がりの部分を表現しています。もっと以前の作品でしたら、あえて言葉で表せないものを作ろうとしていました。言葉で片付けられるのがすごい嫌で、モチーフは何も描かなかった。現実的に既視感のある物、例えばコップを絵画として描いたら、「コップ描いてはるわ」「人がコーヒー飲んでる図を描いてはるわ」と分かるので、人がコーヒー飲んでる絵として片付けられちゃいます。だけど、何の形もとらへんような、抽象的な絵を見たときに、それを見た人は簡単には処理できへんと思うんです。僕はその感覚を他の人にも伝えたいんですけど、それは言った時点で言葉として片付けられちゃうから矛盾してしまう。だから、作品として表出するしかない、ということですね。いま制作の根幹としてはそういう部分がすごく強い。僕は言葉を否定的な意味でも肯定的な意味でもすごく重視してます。流行言葉とか、例えば「クソワロタ」とかいろいろあるじゃないですか。ああいうはすごく汎用性の高い言葉なので、意味がそこで終わっちゃうんですよ。世界って、物理的には同じ大きさですけど、各個人の中で、小さいものになってしまうような気がしています。それってすごくマズいことだと思うんですよ。幸せとか、成功とか、豊かさとか、愛とか友情とか、そういったものっていうのは、一義的な言葉でくくられるような、簡単に片付けていいようなものではないと、強く思いますね。

「僕なんか」「私なんか」。そういうのは謙遜というのをはき違えてる

-デザイン事務所としての仕事やご自身での作品制作以外にも、「マイツキ展」「落ちこぼれ展」といった企画をされていらっしゃいます。これらはどういった意図でされているのでしょうか。

長:先程までとは違う話にはなってしまうんですけど、叫び散らしたい欲求というのは誰しもあると思うんですよね。大衆の中で、片膝ついて、「ショーシャンクの空に」みたいに叫びたいというのが誰しもあると思う。それは、自分がここにいるという、存在を叫びたい欲求です。でも、理性的な人間に生まれた以上は、叫び散らす以外に別のやり方があると思うんで、キャンバスなり、空間なり、作品のうちで、声にならない叫びを出し続けるのが、作家としてあるべき姿やと思います。ただ、マイツキ展の企画に加えて、他の作家さんの作品を観たり、ギャラリーとかも見てまわったりしてますけど、正直言ってまぁ、卑小なものが少なくない。やはり、大きい機関であったりとか、友人とか、誰かしらに「いい感じだね」とか「いいね」と言われたいが為の媚みたいなのがこってり貼り付いてる感じがすごくするんですよ。イラストとか絵とか作品とか音楽とか、いろいろ見ていても、「アーティストだね」「人とは違うね」と言われたい欲とか、それであわよくば食っていきたい欲とかが滲み出てる。それなのに、「僕なんか」「私なんか」「タダでいいですよ、持って帰ってください」「気に入ってもらえるだけで嬉しいです」とかぬかすんです。そういうのは謙遜というのをはき違えてる気がしますね。その根性が、すごく気に入らない。そういうのってありません?

-(笑)ありますけど、僕も人のこと言えない。

長:まあまあまあ。なんかね。もの作ろうというからには、作品によって人を殺さなきゃと思うんです。乱暴なことを言うとね。手っていうのは人を殴るためにあるもんなんですよね。手や身体って人を傷つけるためにもできてるので、こいつをボコボコにしたい、あのかわいい女の子を引ん剝いてめちゃめちゃにしたい、とかいう欲求って、みんな誰しもが絶対持ってていいもんやと思うんですよ。人間、きれいなもんじゃない。めちゃめちゃにどろどろしてる悪魔的な部分があり、同時にそれとは対照的に、社会人として、理性的な人間として振る舞える部分があると思うんですよ。ものすごく悪魔的なものは誰しもが心の奥底に秘めている。それに対してある種のガス抜きがされないといけないと思うんです。それを社会が頭ごなしに圧し潰したりするから、結果として悲劇的な犯罪として表出しちゃうんだと思います。

「私は趣味で描いてるだけやから」という人に垣根を越えるきっかけになる

-どういったことでしょうか。

長:たとえば、道理にかなっていたとしてもそれが少しでも過激に聞こえる言葉やったら、言葉尻を捕まえられて、社会的に抹殺されてしまうじゃないですか。それで過激な部分を見ない様にして、「美しい」とか「幸せ」ってこんな意味だよ〜、って洗脳を繰り返して、みんなが素直にそこを目指して、画一的な、同じもの着て同じ顔して同じこと考えているような人間が量産されてる。それってすごく、非人間的だなって思うんですね。だから、表現であったりとかそういったものをもっとオープンに、万人が、絵を描いてもいいし歌を歌ってもいいし、踊ってもいいし、もう何をしてもいいんだっていうムードを作っていかないといけない。それに、日本人は特に、上手い下手に対してすごく敏感だと思うんです。たとえば絵を見せたとしてもすぐに「この部分のパースとデッサンが狂ってるね」とか言いたがる。歌を歌っても、音程がであったり声量がであったりだとか、技巧的なところを突っ込みたがる。偏見かもしれないですけど、大体のムードはこうですよね。その辺の枷みたいなものを取っ払っていかないといけない。「自分は下手だ」とか「技術的に拙いから」とか、描きたい線も描けない塗りたい色も塗れないみたいなムードは、絶対に良くない。だからイベント企画やマイツキ展とかをしています。アマチュアにとっては、個展とかすごく敷居の高いような気がするじゃないですか。この値段で、こんな軽い、ソフトな感じでできるもんなんやなと、「私は趣味で描いてるだけやから」とかっていう人の、自分の垣根を越えるきっかけになればいいなと思って、企画しています。今のところまだそういった影響を出せているか分からないんですけど、なんとかこのままの形でいきたいですね。
<続く>


APATEROが主催する「マイツキ展」

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